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カップ




山を本格的に始めた高校生の頃、分厚い樹脂製のカップを
手に入れた。
山岳用品店であれこれと用具を買い込んだ際、おまけとして
店員がくれたものだ。
何となく気に入り、割れる心配が不要なほど丈夫なことから、
やがて山だけでなく、普段の生活の中でも使うようになった。

山の道具としては、おそらく、一番身近に置いて使ったものだろう。
3000メートルを越える高所にも、マイナス20度という寒冷地にも
持って行ったし、水などを飲むだけでなく、蕎麦つゆも入れた。
すき焼きを食うときに、生卵をといて使ったこともある。
5年、10年と経つうちには、細かい傷がつき、汚れが染み付き、
漂白しても落ちなかったが、持ち主である俺が使う限り、何の問題も無い。
そうした汚れさえ、愛着のうちだった。
衛生観念とは別のものだ。

ハイキング中に、縦長に何層もの板状の岩が堆積した地層をむき出しにした
崖を見上げ、これが崩れたら死ぬなあと思いつつ、足早にそこを
通過しようとしていたら、本当に一番外側の岩が、巨大な板状の形のまま、
滑るように降ってきた。
幅も長さも数メートルある岩の板が、目の前、突き刺さるように落ち、
俺とは逆の方向に地響きを立てながら倒れた。
地面と空気が重々しく振動し、ばらばらと続いて岩が降り始めた。
その場を離れることは大事だったが、落石の場合、動こうが逃げようが
当たるときは当たるので、おそらくは血走っているであろう目を
上に向け、わずかにオーバーハング状になった岩の下に入り込んだ。

崩れている岩の真下に隠れるというのも、妙な話だと思い、
見上げると、厚さ数センチの黒や錆色の岩が何層も重なっていた。
これが一気に崩れたら、本当におしまいだと思ったが、仕方ない。
崩落は表層だけで収まり、これといった怪我もなく再び歩き出した。

危険地帯を抜けたところで休憩し、温かいものでも飲もうとコーヒーを
沸かしている最中、いつものカップを手にとって眺めるでもなく見ていると、
カップの内側に一本、筋が入っているのに気付いた。

今まで、こんな筋はなかった。
気付かなかっただけだろうか。
カップの縁をつまみ、ねじるように指先をひねると、カップは筋から
ぽきんと音を立てて二つに分かれた。
竹筒を輪切りにしたような樹脂製の輪を右手につまみ、呆然とした。
割れた部分は滑らかで、鋭利な刃物が一瞬、そこを通過し、
切り離したように見える。

身代わりだろうなあと、ごく自然にそう思った。
下山するまでに、カップは取っ手が折れ、さらに割れ、底が抜け、
いくつかの破片へと姿を変えた。
破片は全て持ち帰り、古道具の供養をしているという寺に送った。


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2018-10-15 21:08 : こわい話 : コメント : 0 :
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